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日々の思い5 …06.12.〜
過ぎ行く日々へのちょっとした記録


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不意の感覚   一輪の花   ブログ1周年   空あるいは光・・・


2008年1月26日(土)  不意の感覚

  不意によみがえることがある。
そのときの感覚、空気の流れ、近くにいた人の息遣い・・。

歌っていて、そうなった。
コンクールを目指して5年ほど前に歌い込んだ曲を
記念コンサートのためにもう一度歌うことになり、練習が始まった。
指揮者を見る。
思い切り息を吸う。
クレッシェンドしてフォルテシモに。長く伸ばして全て吐き切る。ああ、また立ち眩みしそうになる。
ここは、Hの子音を丁寧に発音する。やわらかく、でもくっきりと・・。
次第に歌の流れに入り込む・・。

そのとき、不意によみがえった。
いつの間にか、あのときの空気感に入り込んでいた。
部屋の中にいた。あの時一緒に歌った人たちが・・。
そしてあのときの歌声が流れていた。

今はいないあの人。いつも隣に立っていた。声を合わせていた。が、去年突然に逝ってしまった。
メゾで歌っていたあの人も、あの時逝ってしまった。優しく皆をまとめていた人・・。
一緒にパートリーダーをしたあの人。独特の声質だったが、今は遠くに行って会うこともなくなっている。

その人たちと歌ったその感覚におそわれた。
今見えている人たちに重なって、確かにそこに感じられた。


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2007年3月3日(土)  一輪の花

  かつて、私が結婚する時、お祝いと一緒に友達が手紙をくれた。その中に「どんな時でも、一輪の花を飾る心を忘れないでほしい…」と書かれていた。元々花が好きなこともあり、庭にも室内にも、花をたくさん育てている。それはどんなに忙しい時でも変わらなかったことだ。切り花や鉢の花、そして花束などを頂くと気持ちが華やいで嬉しい。花を挿す器も好きで、たくさん集めている。花を飾る時にはどれが合うだろうと考えて、いろいろと合わせてみるのも楽しいのだ。

  お正月に、上司から大きなお花のアレンジメントを頂いた。喜んで飾ったものの、その花が枯れてしまって以来、家の中にはお花が全然飾っていなかった。…そう、他のことにすっかり気をとられていたのだ。そのことに、はっと気が付いた。それで、先日出先で、きれいな薔薇の花を見つけたとき、久しぶりに自分のために買い求めた。(ネット友にお花を撮って届けたいという思いもあったけれどね。)そして、ブルーの花瓶に挿して写真に撮ってから、テーブルに飾った。小さくて奥ゆかしい、赤とピンクの薔薇の花…。

  結婚祝いが届いたあの時、手紙をくれた友達の言葉「一輪の花を飾る心を持ち続けて…」。それは、「花のことを思うみずみずしい心の潤い」と言い換えることが出来るのかな。高校時代の憧れの友であるから、いっそう、そんな心を持ち続けたいと思っている。

 


2006年12月10日(日)  ブログ1周年

  去年の今日つまり12月10日に、「風の彩り」をスタートした。その頃の私は、イチデジを買ったばかりで、説明書を読んでも用語の意味さえ解らなかった。それで、ブログの中でいろいろと撮ったものをアップし、自分で見たり人にも見て頂いたりして、いろいろと教えてもらおうとしていたのだ。「デジカメ練習場」と銘打って。
またそれと並行して、私は「季節の持つ光と影、そして吹く風の彩り」というものについて考えていた。季節には、その季節特有の空気感がある。それを見出して表現したいと思っていたのだ。それがどれほど大変なことなのか、今ではよく解ってきているが。(笑)

1年やってきて、私の画像はどう変わったのだろうか。そう思って、スタートした頃を見てきた。今と撮っているものが大分違う。あの頃は、季節の中で呼びかけている小さなものたちの声を聴いて、その声を画像の中に表そうとしていた。今は風景に惹かれ、湿原はもちろんだが水辺の風景がとても好きになって、海もないのにそんな写真の撮れる場所に憧れている。風景の中にある光と影、そこに漂う季節感及び叙情性を表そうとしているのだ。おそらく画像自体は以前よりよくなっただろう。たくさんの方に応援を頂いて。しかし、表現性はどうなのか解らない。

このブログを始めてよかったと、心から思う。私のところは写真サイトではないと今でも拘りを持っているが、同時にいい写真を撮りたいとも思っている。この「日々の思い」にも、いろんな形でそのことを書き続けてきた。…葛藤を繰り返しながら。たくさんの人にその気持ちを聞いてもらい励ましてもらって、なんとかここまでやって来られたのだ。
そして私は数日前に「練習場」の言葉を削った。これからは、撮った画像をアップするときには、表現したいものをちゃんと意識していたいと思っている。

 


2006年12月2日(土)  空あるいは光・・・

  旅から帰って早1週間、今日は久しぶりに我が家でのんびりと過ごしている。ふと見ると窓の外、山の尾根の方に日が差して、そこだけがくっきりと浮き上がっている。夕方の傾いた光が木々を明るく照らし、その後ろの山肌は藍色に暗く沈んでいるのだ。はっとして立ち上がり、そこをじっと見つめる。まるで私を呼んでいるように感じ、気持ちが引き込まれる。しばらくの間呆然としていたが、思い直して、腰を下ろした。

このサイトをスタートして、3年が過ぎた。トップを飾っている空の写真は、「
空のGallery」として全て保存をしている。これは最初に作ったごく少ないコンテンツの一つだ。あの頃どうしてトップに空を持ってこようと思ったのか覚えていない。ただただ、空が好きだったのだ。根室で撮った、かもめの飛ぶ曇り空の写真から始まって、あちこちで撮った空はずっと今日までここのトップを飾り続けてきた。そして、今も私は空を追いかけている。以前とはまた少し違った思いで・・。

このところ、私はずっと空ばかり見ていた。毎日明け方になるとぱっちりと目が覚めて、窓を開ける。日の出を待ちながら、今日はどんな空だろう、いい雲が出ているだろうか、いい光が差してくるだろうか、こんな空を撮るとしたらカメラの設定はどうすればいいのだろう・・そんなことを考え、同時に、そのまま外に出て写真を撮っていた。昼間もそうだ。職場の窓から外を見て、思いを巡らせていた。夕方になると夕日の行方が気にかかり、勤務終了と共に飛び出して、小焼けの撮れそうなところを探し、車を走らせた。もちろん家で出来る仕事は持ち帰り・・。

そんな日々がずうっと続いていた。空だけではなく、いろんなものを見、あるいは撮っていた。おそらく感受性が研ぎ澄まされていたのだと思う。物事に敏感に反応していた。夕方の光、逆光に浮き上がる草、キラキラ光るもの、そのこちら側のシルエット等々・・。その気持ちは今も変わらない。少し自分を振り返り、ペースを落とそうとは考えているけれど。

今でも本当に空は好きだ。空は、自分の気持ちを反映する。空の中に自分を委ね、空の中に自分を見る。

 


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